空色のパノラマ

空色のパノラマ

なにげない毎日の中にひっそり佇むささやかで見落とされがちな奇跡を、X100Fとクラシッククロームで綴る日記。

奥山の大木、里にくだりて神となる・・・御柱を終えてその②。

撮影:2022年5月。御柱直前の街の様子。

タイトルの言葉は、御柱祭のキャッチフレーズ?いつから出てきたか分かりませんが割と
御柱祭を表す言葉としてよく出てきます。
山で切り出した大木が最後には神社に運ばれ、そこに神が宿る、という祭りそのものを
表している言葉ですが、今回御柱に参加して、ああ、こういうことか、という自分なりの
理解を得ました。

そもそも、身の回りの物は草木の一本、石ころの一つにいたるまで、全てのものに
神は宿っていると思います。だから、御柱も石ころも、同じように神が宿っていて
同じように尊いはずです。
だけど、残念ながら、人はなかなか、石ころを同じように尊く感じることは難しい。
その辺の石ころに神が宿っているとはなかなか感じにくい。
そう感じるためには舞台装置と過程が必要です。

だから、山奥の森から樹齢180年のモミの大木を選び、木を伐り、苦労して苦労して
自分たちの手で、みんなで、力を合わせて心を合わせて運んでくる。いや、苦労する
中で力が合い心が合う。
そうやって神社に建てるまでをやってはじめて、そこに神が宿っていると、理屈でなく
実感することができるようになるのだと思いました。
つまり、タイトルの言葉は、一つにはこうやって苦労して運んできたからこそ神様が
宿ってくれたとも取れますが、実は初めから神様というのはそこにいて、自分たちで
苦労して力を合わせたからようやくそのことを感じることができた、ということ
なんじゃないかと思いました。

なんとも人というのは不器用な生き物な訳ですが、それでも、御柱を曳いた人たちは
自然と柱に向かって頭を下げるようになるっていうのは、なんだか清々しいな、と
思ったりします。

追伸。
前々回と同じようにがっつり参加した御柱。それはそれは楽しかったのですが、
そうなるとカメラを持って写真を撮るということが一切できず、それはそれは苦しい!!
自分ががっつり何かをやるときにつきもののジレンマです(笑)