よく想像するのですが、みんなが見て、聴いて、触れて、生きている世界って
人それぞれ、みんな違う世界じゃないかな、と思ってます。
例えば、僕の見ている青色とあなたの見ている青色は全然違う色なんじゃないか、と。
パラレルワールド的なことを言いたいのではなく、実在の世界の成り立ちはただ一つ。
ただそれを認識するのは各々の五感、あるいはそれ以外の感覚、心・・・なんにせよ、
各人がそこにあるものを各人の体や心で感じたもの、あるいは解釈したものがその人に
とっての世界であるので、その感じ方が必ずしも同じという保証はなくて、むしろ
バラバラなんじゃないか、と。
つまり、主観的世界は無限に違うのじゃないかな、と思ってます。
で。
じゃあ上の例の、僕の青とあなたの青を比べても、自分の見た青を相手に見せれば
それは相手の青としてとらえられるので、「客観的」に比べることは不可能だし、
きっとその違いは顕在化することはなく。
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表現者という人たちは、それがどんな手段であれ、自分の感じている世界を自分以外の
人に伝えようとしている人たちだと思っています。
そして、僕は、全ての人が表現者だと思っています。
つまり、全ての人は、自分の感じている世界を人に伝えようとして生きている、
そんな風に思います。
明確な表現を通してなのか、あるいは、全然別の、普通の暮らしを通してなのか。
一見表現者に見えない人も必ずそれを伝えようとしていると思います。
(本人にそんな意識はなくても!!)
全ての人は自分の感じている世界を人に伝えようとしている。
でもそれは、さっきの青の例のように、決して人に伝わることはないし、
その観点からすれば実はみんな、孤独な世界に生きていると思います。
でもそれは絶望ではなく、意識はしていなくても、自分の世界はこうなんだ、と
伝え続けることが生きるということで、生きるということそれ自体が
コミュニケーションで、つまりどんな状態であれ、どんな生き方であれ、
コミュニケーションをし続けている、人に伝え続けている、人に耳を傾け続けている。
僕はそこに希望を、はかなさを、あたたかさを、光を感じるのです。
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あらゆるジャンルに共通で、優れた表現者とは、自分が見ている世界を他の人に
伝えられる人たちだと思います。
自分の世界をそのままポンと出しても伝えるのは不可能で、それを翻訳、あるいは
別の表現に置き換え、組み合わせ、喩えて、その他あらゆる方法を駆使して、
世界を見せてくれているのだと思います。
そこに僕は心を揺さぶられます。
もちろん写真もそう。
僕がはてなブログで見させていただいている写真ブログの方々からは、
その方の世界を垣間見ることができます。
そこで心が揺さぶられることで、今日もまた写真を撮り続けようという活力と
刺激をもらっています。