空色のパノラマ

空色のパノラマ

なにげない毎日の中にひっそり佇むささやかで見落とされがちな奇跡を、X100Fとクラシッククロームで綴る日記。

自分が見逃したことすら気づかない、美しい景色がきっとたくさんある。



※撮影:2023年6月〜7月。諏訪湖、通勤途中、自宅、近所。
  カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
  絞り優先モード、WB:晴天R:-3/B:-2、ハイライト0、シャドウ:-1、カラー:-1、
  DR:100、NR:-4、シャープネス:0、グレインエフェクト:弱。

さて。ブログがいよいよ一ヶ月に一回ペースに落ち着いた今日この頃です。
写真を撮ること自体は隙間時間というか、隙間ですらない通勤や暮らしの中でできること
なので日々たくさん写真を撮っております。
(これができないとなったらストレスたまるだろうな〜)

とはいえ、それでも、あ、今撮り逃したぁ!!みたいな瞬間もたくさんあります。
ロコ(犬)の散歩をしていて遠くに見える空がすごくきれい、だけど建物ごちゃごちゃで
もうちょっと空がよく見えるひらけた場所まで行きたい、と思ってもたどり着く頃にはもう色が変わっていたり、珍しく車で走っているときに綺麗な景色に出会って、でも車を止めることができない!!みたいなことがあったり。他にもいろいろ。

そんなふうに見逃した〜ってわかる瞬間もたくさんあるのだから、それ以上に、自分が
見逃したことすら知らない、自分が知らない、気づいていない、美しい瞬間や光景が
きっと山ほどあるんだろうなぁと、ふと先日思いました。
そしたら、なんかそれがすごくいいなぁ、と。
なんでだろ。
なんでかは分かりませんが、自分が知らない美しい景色がたくさんあるっていうことが、
そしてそれを受け入れたことが、見逃してもいいし、撮り逃してもいいし、知らないことも
悪くない、そんな風に思ったことで、自分の気持ちがとても幸せになりました。
最近は、そんな風にカメラと写真と暮らしとブログに向き合っています。

追伸。
ブログのペースが空いてくると自分が撮った写真をブログに上げるまでの期間も間隔が
空いてくるようになります。そうすると、写真を選ぶ回数も増えてきます(説明します)

自分の場合、たくさん撮る→ちょっと間を置いた頃にパソコンに移しながら選別する→
さらにそこから時間をおいて写真をさらに選別する(ふるい落とす)→繰り返し・・・
という流れになります。そうやって自分の撮った山ほどある写真から現実的な枚数に
セレクトしています。

時間を置くと、撮ったときの気持ちが薄れてきてより客観的に見れるようになって、
主観から客観の目線に近づけるようになったり、時間を置くとその間に写真集とかも
目にしているので、だんだん自分の写真を選ぶ目も肥えてくるようになり、写真を選ぶ
ときのふるいの目もだんだん細かくなってきて、っていう時間が長くなり、以前より一層、
たくさんの写真がふるいにかけられ選別から外れるようになります。

たくさんの写真が見返すたびにボツになっていく。
最近、それがすごく気持ちいいです。
残すか落とすかちょっと迷うなぁ~っていう写真を潔く落とせるようになってきて、
そうすると残るのは厳選した自分にとっては厳選した最高に自分が好きな写真になります。
その感じがすごく気持ちいいな、と感じています。
セレクトするの楽しいです!

自分の理想の人間像は息子です。

※撮影:2023年5月。茶臼山動物園、白樺リゾート・ファミリーランド。
 カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
 絞り優先モード、WB:晴天R:-3/B:-2、ハイライト0、シャドウ:-1、カラー:-1、
 DR:100、NR:-4、シャープネス:0、グレインエフェクト:弱。

僕の住んでいる長野県にも動物園がありまして、象や亀の写真がそれです。
うちからは1時間半くらい。
そしてうちからは1時間かからない高原に、遊園地があります。
まぁ都会に比べたら小さい小さい遊園地ですが、うちの子供たちはここが好きで、
見てわかる通り素朴なジェットコースターに並ぶのが大嫌いな僕が2時間以上並んで
親戚の子供とあわせてみんなを無事乗せられました。
この笑顔が撮れたので満足!!(並んでいる間はずーっとジェットコースターを流し撮りの
練習していたので実はそれほど嫌ではありませんでした(笑))

そんな家族なんですが、今子供達は夏休み中で、朝は庭の草取りのお手伝いをしてくれて
います。
この間、草取りしている息子の姿が見えなかったのでどこに行ったかな、と思ったら、
うちの先の道路の草取りをしていました。
我が家は道路からずっと奥に入った突き当たりで、そこまでには家も何軒も並んでいて、
僕なんかだと他の家が草取りしてくれてもいいんじゃない、っていうような道路から入った
すぐのところを黙々と取っていて、戻ってからも別にそのことを言うでもなく、いつもの
庭の草取りを終えた時と同じように普通にしていました。

自分なんかは、損とか考えずに人に親切にしよう、とかは考えますが、それってベースに
損得、って考えがありますし、きっとそういうことしたらこんなに頑張ったよ!って
家族に言うような気がしていて。
そんなことを多分少しも考えず、淡々と、毎日草を取っているのでだんだん庭から草が
なくなり、草のあるところ、あ、道路のところだ、と自然な流れでそんなふうに損得なんて
微塵も考えずにやっている息子がかっこいいと思いました。

自分が考える理想の人間像ってそのまま息子だよな、っていつも感じる日々です。

他の人の印象に残りたい、という気持ちから自由になれたかな。

※撮影:2023年5月。近所、庭。
 カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
 絞り優先モード、WB:晴天R:-3/B:-2、ハイライト0、シャドウ:-1、カラー:-1、
 DR:100、NR:-4、シャープネス:0、グレインエフェクト:弱。

今回も雑多な写真が並びました。これが自分にとっての普通。日々撮っている感じが
そのまま並んだな~という。
この頃は特に光がきれいだな、と感じていて、何とかそれを捉えたいと光を追いかけていた
感じはあります。5月。過ごしやすかったですね~(笑)

さて。
(久しぶりの自分の弱さを書く回です。いくつになっても未熟な自分だなぁ)

いつの頃からか憶えてないですが、ずーっと長いこと、人の印象に残りたい、と無意識に、
あるいは時に意識的に、行動していたな、と最近気づかされたというか、自分のことを
理解したというか。
というのも、僕は結構人に覚えてもらえないんですよね(っていうこの感じ方もまた自意識
のなせる業かもしれませんね)。
何回か会ってもこっちは憶えていても相手は覚えていない、印象に残っていない。
自分は印象的ではない、っていう思い込みからくるコンプレックスだとも思います。

ともあれ、それが事実であれそうでないのであれ、少なくとも自分は自分の印象と
相手が自分に対して持っている印象をそう捉えていて、そして、なんとか覚えていて
もらいたい、っていう気持ちがいろんな行動の源になっていたように今振り返ると思えま
す。
中学生の頃は優等生になることでそれを満たそうとして、高校の時はとにかく仲間と
ひたすらつるんで、つるんでいるときは偽悪的な発言を繰り返して。
大学生の時はすごい背伸びして、全然理解できないノイズミュージックを聴いたり現代
アートを見たりガロを読んだり(笑)
東京でプータローのときは単館映画見たり、怪しいライブハウス行ったり。
工務店の営業やってたときは、とにかく本を読んでいろんな体験をして、どんなお客さんの
話にも合わせられるようにして、かつ、なんか鋭い意見を言えるように準備して、実際に
それを言ってたり。

こうして振り返ってみるとまぁ中二病だし、とはいえそれらの経験や蓄積が今に繋がって
いるので、それ自体、やってきたことは無駄ではなかったし、むしろよかったなぁと。
ただ、最後の営業のときが顕著なんですが、鋭い意見を言って相手の記憶に残りたい、
もっと言えば一目置かれたい、というのがやっぱり逆に苦しみの元になっているな、と。

ここ最近は、そういう欲求で行動をすることはないものの、ただ、誰かと知り合ったときに
全然印象が残せてない、次会った時に初めまして的な感じで話をされるのと、その相手が
別の相手と会って、そこからつながりが広がっていくのを目の当たりにしたときなど、
うーん、うらやましい、という嫉妬が芽生えてしまっていました。

そんな日々の中で、自分の地域で夏休みや冬休みのたびに、PTAに要請されて(僕も
去年お世話になりました)子供たちに工作や遊び体験教室をしてくれる地元の、通称
山ちゃん、というおじさんを見ていて、この人はそういう活動を他でアピールすることも
一切なく、ただただ毎回、子供たちを喜ばせようと新しいアイデアを仕入れてきて、
綿密に準備し、教室では子供と一緒に楽しい時間を過ごし、そして終われば、じゃぁ、
って言ってさっと去っていく。
ああ、なんかすごくかっこいいなぁと。
多分(自分自身が)子供の印象に残りたい、なんて微塵も思ってなくて、当然親の印象に
残りたいなんてこともこれっぽっちもなく、周囲にアピールしたいなんて想像すらしたこと
もなく、ただただ、目の前の子供を喜ばせたい、その一点のために行動し、その一点を
自分の喜びとしている。
そんな風に自分もなりたいな、と思いました。

別に相手の印象に残らなくてもいい。次に会った時に初対面気味に来られてもいい。
相手のことを知りたい、興味がある、いろいろ知識を蓄える、体験する、そういうこと
それ自体に興味があればどんどんやればいいし、でもそれをひけらかしたり意見として
言う必要もなくて、相手の話を聞くだけでいい、その時間を楽しむだけでいい、だって
本当に自分が好きなのはそっちなんだから、と思えました。

こうやってブログに書いている時点で自分の気持ちを伝えたい、という気持ちはあります
が、印象に残りたい、っていうことじゃなくて、書きたいことを書く、そのときに思った
ことを書く、という、今写真では割とできていること、撮りたい物を撮りたいように撮り、
素直に上げていく、そんな風に続けられたらと思います。

今日も自分にとっての当たり前を一生懸命生きる。

※撮影:2023年4月。近所、高島城、諏訪湖沿い。
 カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
 絞り優先モード、WB:晴天R:-3/B:-2、ハイライト0、シャドウ:-1、カラー:-1、
 DR:100、NR:-4、シャープネス:−2、グレインエフェクト:弱。

4月に怒涛の勢いで撮りまくっていた桜写真の合間を縫っての日常写真を。
ときどき書いてますが、自分の写真はほんと暗いなぁと(苦笑)
ただ、それは後から客観的に見てそう思うだけで、実際に写真を撮っているときも
選んでいるときも自分で暗い写真を選ぼうと思ったり、暗く撮ろうと思ったりはしてな
くて、そのときどきの、自分が感じるベストな状態を目指した結果こうなる、という。

そして、自分で言うのもなんですがまぁ平凡な写真だな、と。
でもその平凡さが悪くないんだよな、とも思います。

今の仕事は、仕事柄、ミスや問題が起きたときにはワーワーと騒ぎになりますが、
ミスも問題も起きない時は、それが当たり前という感じで何事もなく過ぎていきます。
でも、日々ミスを出さない、ということは全然当たり前じゃなくて、そこに一生懸命
取り組むからこそ何も起きなくて、ようやくそれが当たり前になる。
(いつも何か起きるんじゃないかと冷や冷やしているので、何もない状態はむしろ個人的
 には奇跡に近いものなんですが(苦笑))

昔の知人や友人がキャリアアップをしたり、個人で新しいことを始めたり店を開いたり、
あるいは日々の素敵な暮らしを紡いだり、人と人とがつながってつながりがまた新しい
ものを生み出したり。
すごいな~と感じます。
そういう華やかなこと(多分それは傍から見たら華やかなだけで、本人にしてみれば
地道でそれこそ当人の生きる中で生み出される必然、当たり前なのだと思いますが)、は
自分の人生には今まではなかったし、これからも当面なさそうですが、日々の暮らし、
仕事、地区のこと、その他の人間関係など・・・目の前の当たり前を当たり前として
続けられるように目の前のことにともかく全力で。

特筆すべきことは何もありませんが、今日も一生懸命、日々を過ごしています。

そのようにしかできないんだなぁ。

※撮影:2023年4月。自宅、近所、諏訪湖。
 カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
 絞り優先モード、WB:晴天R:-3/B:-2、ハイライト0、シャドウ:-1、カラー:-1、
 DR:100、NR:-4、シャープネス:−2、グレインエフェクト:弱。

また雑多な写真が並びました。雑多な写真が並ぶと、自分の写真が暗いなぁ、ということが
よく分かります。
最近は妻が僕のインスタを見てくれているですが、なぜそんなに写真が暗いんだ?と
言われます。
実際に自分でも暗いと思いますが、しかし暗い写真を撮ろうと思って、あるいは選ぼうと
思って暗くなってるわけではなく、素直に写真を撮って、後から一番いいものを選ぶと
結果として暗い写真が残っている、と。
自分の心に素直に従うとこういう写真が多くなるということです。

先日、職場でAさんとBさんのもめごとがありまして、成り行き上半分、自主的半分で
その仲介というか、それぞれの人と話しをして収めた、ということがありました。
・・・以前の職場ではこういうことをかなりやっていて(それだけもめごとも多かったと
いうことですが(苦笑))、それで疲弊してしまい、今の職場に移ってからはそういうの
からは手を引いていました。人は人、自分は自分、当事者同士で解決すべし、という。

その方針自体はさんざん苦労した末に学んだことで、それは今でもそう思うのですが、
でもそのときは、こりゃやばいと思って頭で考えるより先に無我夢中で動いていて、
どうすればお互いに対してその場限りのごまかしでなく、誠実に、しかしどちらにも
加担せずに、それでいてお互いのわだかまりを解きほぐせるか、ということに必死で
頭を働かせて働きかけました。

結局、人って変わらないなぁと。人なんて主語が大きすぎるか。自分って変わらないなぁ。
そうにしかできないし、そう動くのが自分にとってどうやら自然なことのようだし。

以前のように、その結果によって自分の心が乱れないように、やるだけやったら後は
当事者同士のこと、っていう人は人、自分は自分、の割り切りは大切にして、それでも、
自分の中の自然な衝動には従っていこうと。

写真もね~ブログはともかく、インスタとかフェイスブックの写真グループとか、自分の
写真の中でもこういう写真はだれからも反応されない、っていうのが分かりはするんですが
(例えば今回の4枚目、5枚目みたいな真っ黒な写真(笑))、例えば先日の桜の写真の
ような明るい写真なら反応があることも分かるんですが、でも、自分にとってはどちらも
等しく気に入った写真なのでどちらもそれぞれ投稿してます。自分の気持ちに嘘は
つきたくないので。(写真をネットに上げるそもそもの目的が、自分がきれいだと思った
ものを上げる、ということでやってるので)

写真も生き方も、人生の中でここまでくれば配られたカードの配り直しは効かないので、
配られたカードを嘆くよりも、配られたカードをよりよく生かすっていうことだよな、と
思います。

黄昏時、朝、夜、そしてまた朝へ。

※撮影:2023年3月。近所、職場。
 カメラ:X100F。フィルムシミュレーション:クラシッククローム。
 絞り優先モード、WB:晴天R:-3/B:-2、ハイライト:-1、シャドウ:-1、カラー:-1、
 DR:AUTO、NR:-4、シャープネス:−2、グレインエフェクト:弱。

やっと3月最後の写真となりました。
3月は自分で気に入った写真が多かったな~。それだけ季節の光の感じが好みだったんだ
なぁと思います。
基本的に決まった時間に起きて決まった時間に散歩して、平日はともかく休日の夕方は
決まった時間にまた散歩して、という風に決まった時間で行動しているので、季節の
変化と共に目に見える朝や夕の景色も変化していきます。
そういった季節ごとの時間的な変化をより楽しめるのもカメラを趣味にしているおかげだと
思っています。

sorairopanorama.hatenablog.com
そして最後のカメラ写真。
以前にも書いた通り、地道にカメラのドレスアップをしています。
以前のときと比べると、今回はレンズ周りに青い線が一本入っております。
(プラカラーでどうしてもできてしまうフィルターのネジの隙間部分に色を塗りました)
銅テープを巻いてあるオレンジっぽい線の隣の線です。

正面からは全く見えないし、言われなきゃ全く気付かないし、そもそも何やってんの?
っていう感じだと思いますが、自分ではかなりお気に入り、自己満足の極みのワンポイント
です!
(ちなみにカメラが載っているのは薪割のときに台替わりにしている大きな年季の入った
 丸太です)