空色のパノラマ

空色のパノラマ

なにげない毎日の中にひっそり佇むささやかで見落とされがちな奇跡を、X100Fとクラシッククロームで綴る日記。

今の自分は途中の自分ではない、という気づき。

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撮影:2021年12月。諏訪湖、自宅、近所。

人生には目的があり、その目的に至るまでは過程であり努力している途上であり
人生の途中である。
という様な人生の捉え方、これを否定して、今この瞬間こそが人生の全てであり、
これこそが本番であり、今この瞬間にスポットライトを当て続ける、その今の連続
こそが人生である、という人生の捉え方。
これはアドラー心理学の考え方なんですが・・・

自分の拙い文章で短い文章にすると誤解を生みそうですし、自分自身、
これが分かったような気になっていました。
ともかく先のことを考えずに、今を一生懸命やるってことだよね、って
理解してました。

でも実際はそれだけじゃなくて、実はもっと覚悟がいることだったり、ある意味では
もっとおおらかに考えることだったりで、全てを受け入れる度量が要求される話
でした。
(と僕は解釈ました)

目的地に到達した自分を想像し、それに対してまだそこに至らない自分=
今はまだ途中である、という捉え方を辞めて、今ここにいる自分がシンプルに本当の
自分である。この先もっと変わっていくかもしれないけど、それはそれとして、
今この瞬間の自分から目をそらさずに自分として受け入れること。
許容すること。自分なんだと表に出していくこと。

特に写真について気づきが訪れました。
以前、自分はコンテストに出す勇気がありませんでした。
(コンテストに出す出さないは人それぞれですが、自分はいつかコンテストに
 出したい、という気持ちがありまして、その前提での話です)
もっとうまくなったら、もっと自分が気に入る写真が撮れたら、と思っていました。
理想の自分の写真がまぁ具体的にはともかく、もっとうまい、みたいな漠然とした
イメージであって、そこに至ってない今はまだ表に出していくのは早い、みたいな
ことを無意識に思っていたんだと思います。今の自分の写真をうまくなる途中の
写真だと捉えていたんだろうと。

でも、あるとき大切な友人からメッセージをもらって、はっとしました。
(一部転載)

「去年は個人的にも(お察しの通り)ほんといろいろあって、「自分はいい顔してると
 思うんです」と言ったものの、そこには本音半分、強がり半分があって、そういう
 部分も全部含めて、今この瞬間を残しておきたかった。という気持ちが大きかった。

 って言う部分で、こういう言い方はとても失礼なんだけど、きれいな写真とかいい
 写真とかは全然求めてなくて、ただ、今の私を撮ってくれーって正直に言えちゃう
 相手が林さんだった。というとこなんです。
 深い意味とかはなくて、直感でしかないですけどね!」

人物写真が決して得意ではない自分に、写真を撮ってほしい、っていう話しをして
くれて、うれしい気持ちがありつつ、えー、人物苦手だよ、っていう返信に対しての
返しを読んではっとしました。
そうか、そうなんだな。今の自分のぎこちない写真にも価値があるんだ、という
気づき。

そう気づいたとき、そうか、(いつかもしかしたらそうなる)うまくなった写真も、
そして今こうして撮っている写真も、どちらも同じく自分の写真で、どちらも同じく
自分自身の現れなんだ、と。
そう感じたときに、理解していたような気になっていた冒頭のアドラーの言葉が
すっと自分に入った気がしました。
自分自身の写真をうまさで測らず、僕らしい写真っていう風に見てくれた、そのことが
とてもうれしくて、とても勇気をもらいました。

それが去年の年末くらいで、そこからいくつかフォトコンテストに出したり、
なんていうか、今までとそんなに変わらないけど、でも、今までよりも、
これが自分の写真です、自分自身です、っていう気持ちや言葉でネットに
写真をUPするようになりました。

何より、写真が以前よりもさらに楽しくなりました。
今の自分、今の自分の写真に乾杯!!(^^)/