空色のパノラマ

空色のパノラマ

なにげない毎日の中にひっそり佇むささやかで見落とされがちな奇跡を、X100Fとクラシッククロームで綴る日記。

今そこここにあるものが、これからもあるとは限らないから。

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僕が撮る写真は日常の中で出会ったものがほとんど。
それは、毎日の生活の中で写真を撮れるタイミングが日常にしかないからなんだけど、
それを制約と思ったことはない。
毎日の生活の中で、いいな、と思う瞬間は山のようにあって、そのときに写真を
撮ることが自分にとって無上の喜びだから。

基本的にはそんな感じで日常写真を撮ることに特別な理由も理屈もないんだけど、
ただ最近ふと気づいたのが、どんなに当たり前に思えるものでも、今そこに
あることに全く疑問すら感じないほど当たり前に思えるものでも、
それは景色であったり物であったり建物であったり自然であったり
人間関係であったり人そのものであったり暮らしであったり、ともかく
あらゆるものなんだけど、どんなものもいつかは形を変え、移ろい、
場合によっては失われる。とどこかで感じているから、姿を覚えておきたい、
残しておきたいって無意識に思っているのかもなぁ、と。

44年も生きてくれば大切なものや人や人間関係も景色も数多くなくなっていったもの
を目にしてくるわけで。
たくさんのものを得て、たくさんのものを失って。
例えば風景にしても、僕の街は昔は田んぼがそこかしこに広がっていて、
建っている家もみんな庭があってこじんまりしていて、本屋さんやCD屋さんも
たくさんあったんだけど、今は店はほとんどなくなり、田んぼもなくなり
建っている家は敷地めいっぱいな箱のような家がほとんどでそこに庭や
緑はなく。

だから今、ここにそれがあることを奇跡のように感じ、写真に焼き付けている。
ような気もする。